借金・自己破産・自殺未遂を人生の糧にした男の美学
幼少期
Early life
私が生まれてすぐに父親は愛人と遠く離れた大阪の地に移り住み、3歳になる頃まで家にいなかったらしい。
母は小学校の教員をしており今年で85歳になる。
その当時教員は人々に尊敬された存在であった。
今は随分ストレスの多い大変な職業となってしまったが。
教職に就いたものは必ず一度は僻地へと飛ばされるらしく、私が3歳頃はバスで1時間ほど離れた田舎の小学校に勤務していた。
朝は6時半に家を出て、帰りは夜の7時を回ることもあったので、当然私も姉も祖父祖母に任され、3歳頃には保育園に通うようになっていた。
日曜日や夏休みは祖母が相手をしていたらしいが、祖母もまた父親と同じようにパチンコが大好きで私は近所の子供達を遊ぶ時間が日増しに増えていくようになった。
そして一人でいることを好む正確にもなっていた。
その当時はまだ舗装道路がなく国道も砂利道だった。
電車もなく、鉄道は汽車が真っ黒い黒煙を吐き出しけたたましい音を立てた蒸気機関車が目の前を走っていた。
私は南九州のとある県の市内地に生まれたので、そこまで田舎ではなかったが、粘土遊びは自宅の庭から掘った土で団子を作ることが大好きだった。
木登りや缶蹴り、メンコや鬼ごっこ、縄跳び、戦争ごっこなどままごとなどの○○ごっこが流行っていた。
とにかく外で裸足で遊びまわる子どもだった。
小学校に上がる頃にはクラスで一番体格がよかったので、上級生とよく間違われていた。
物事をはっきりと大きな声で言う子どもで、小学校に上がった時には、活発で授業中にとにかくよく手を挙げて意見を言うタイプの男の子だった。
通知表はほぼオール5(その当時は5段階評価で5は最上級だった)でスポーツも万能だったが、特に走るのが学年でも一番早かった。
私が通っていた小学校は全校生徒が3000人以上もいるようなマンモス校だった。
昭和30年代に生まれた私は高度成長期を体で体験しながら育っていった。
2015年7月15日 空太郎
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