この言葉、その現実が訪れるまで到底理解できない恐ろしい出来事だと思い込んでいた。
しかし現実に様々な手続きを済ませていく中で、失敗者として負け犬のような惨めな自分の姿が現れると同時に、想像もしていなかったような自分の姿も浮き彫りになった。
それはあるがままの自分。
何も持たない自分。
その当時に実にあらゆる出来事が起こり、あらゆる思考が駆け巡り、パニックになり、自己卑下になり、自信喪失、自暴自棄、自虐的、他人を責める思い、恐れ、恐怖心、不安、猜疑心、嫉妬、やっかみ、妬み、恨み・・・
数え上げればきりが無いほどのありとあらゆる心が現れた。
その一方で常々自分の座右の銘として他人にも、また自分自身にも言い聞かせてきた言葉がある。
それは、
「人生には常にふさわしい現実が起こっている」
というものだった。
その時もやはりその言葉は常に心に去来しては消え、また去来していた。
人生には常にその人にふさわしい出来事が訪れているとしたら、「破産」するにふさわしい自分であったということか?
人には必要なことだけが身の回りで起きていると信じていた私は、その現実のプラスを見出す努力をしようと懸命だった。
そう考えると破産することでまず大きな執着が消えた。
1億円もの借金があったので、その返済に追われる日々から或る日突然解放されたのだ。
そして刑務所に入らなくて済む、国家的な弱者救済のシステムがあった。
そう犯罪とは言え無いほどの罪であるのだ。
苦しみの原因が執着にあり、その執着の種類は実に様々だ。
例えば見栄やプライドもその一つで、他人にこう見られたい、こんな風に思われたいという心こそ見栄やプライドなのだ。
破産という現実を受け入れた時にそのことに気がついたのだ。
自分の思うがままに生きてきたというが、自分というのは他人に見られている自分でしかなく、本当の自分では無い。
他人は常に、いろいろな見方や見え方をするものだから、誰がこう言っているとか、誰それにこう思われているなど虚像でしか無いことに気がついたのだ。
経済的に成功していたら尊敬され、失敗したら嘲り罵られる。
その両者は同じ人物だというのに、持ち物や立場、地位、年収によって人は違った見方をするものだ。
本当の自分・・
ありのままの自分、生まれたばかりの時は確かに何も持っていなかった、何も所有してい無い裸の自分からこの人生は始まったのだ。
そうであるなら最初に戻っただけだ、人生ゲームの振り出しに戻っただけなのだ。
自分のもの、誰のものと物差しで人間の価値を計っていたが本当にそれが人の価値なのか?
2015年7月14日 空太郎