借金・自己破産・自殺未遂を

人生の糧にした男の美学

中学校時代

Junior high school

中学時代は本当に悲惨だった。

小学校時代に人気者だった私は人が変わったように荒れくれた。

何かに取り憑かれたような3年間であったのだ。

人気者は見る影もなく学年で一番嫌われていたかもしれない。

少なくとも私の担任を含め、学年主任や教頭、校長に至るまであらゆる大人を嫌っていたのは私自身であった。

他人を嫌ったり、他人を憎んだり、怒り、罵り、罵倒し続けた。

大人がやってはいけないということをことごとくやってのけた。

おかげで学年一の不良少年に成長!?して行ったのだ。きっかけは単純だった、中学の入学式で黒板に漫画を描いていたことでいきなり担任に平手打ちを喰らってからというもの、激しい怒りと反抗心が芽生えたのだ。
言葉少ない一見温厚そうな担任はことあるごとに私に暴力で規律や規範を守らせようとした。

生徒指導部の顧問も同類だった。

暴力で人が言うことを聞くと勘違いしていた。

暴力を散々振るわれた私はとても暴力的な人格に変貌して行った。その頃を知る知人と20年ぶりに飲みに行った時こう言われた「あの頃のお前はデスノートの主人公のようだったよなぁ〜、いつ人を刺し殺してもおかしくない雰囲気だった」と・・・

確かに言われてみたらデスノートに多くの人の名前を刻んでいた。

学校の先生はさしずめほぼ全員リストに上がっていた。

警察も機動隊も父親もそのリストに挙げられていた。

2年生になる頃には本格的な不良チームが出来上がっていた。

私は他の中学の不良たちとも次々と繋がって行った。

この世界は明らかに「波長同通の法則」が存在することを今ははっきりと認識できる。

不良は不良と繋がり、不良はヤクザと繋がり暴力集団と化していくのだ。

幼少時の虐待も災いした。

暴力に以上な嫌悪感を感じながらも、その実、皮肉なことに嫌いになったものと似てくるのだ。

人の潜在意識には善悪がなく嫌いという感情やああはなりたくない!というこちらの意思とは裏腹に、その思い浮かべている相手の姿だけがインプットされる。

結果、私の世界で一番嫌いな暴力父さんのようにだんだんとなって行ったのだ。

その頃の自分を振り返ると自分の保身のことだけを考え損得だけで物事を見ていく偏見の塊だった。

エゴイストという言葉は私のためにあるのではないか?と思えるほど、寛容さや優しさ思いやりなどかけらも無くしてしまった中学時代であった。
行き着くところは少年院!?しかしさすがに父親は警察に猛反対しその時は父親が土下座して私を更生させると約束し難を逃れたのだ。

大嫌いな父だったが、愛情は健在だった。そのことに今はとても感謝している。

もしあの時少年院に行っていたら、私はほぼ100%ヤクザになっていたと思えるからだ。

今思えば、私の父は私の青年期の大事な時にいつも正しい判断をしてくれた。

長い間幼少期の虐待だと思い込んでいたが今となっては躾のつもりだったのかもしれないし、自己表現や知恵が足りなくて暴力的な表現をしていたのかも知れないと思うと許せる気持ちになった。

そんな幸運をよそに私はブレーキが壊れた車のようにアクセルしか踏まない人生を送っていた。

「慣性の法則」は有名だが、ある程度スピードが出た車は急に止まれないし急に方向転換ができないで一定の時間、最初の方向に走りぬいてしまう。反社会的な私の言動は新しい原因となる悪しき種を蒔き、またその悪しき実がなる。そのカルマからは決して逃げきれない。

嘘のように次々と不運が続いていった。

カルマとは思いと行動によってできた悪しき作用のことであり、作用あれば必ず反作用がある。

「振り子の原理」とも言われ、大きく振れば反対側に大きく戻ってくる。

ちょうど天に向けて唾を吐くようなもので、引力で吐いた唾は私の顔面に向かって落ちてくる。

「因果の理法」とも言われるもので、不良には不良にちょうどふさわしい世界が待っているのだ。

中三の時にはクラスには一人も友達はいなかった。狂犬のような荒れくれた私から小学校時代のたくさんの友人たちは皆去って行った。いや私が去ったのかも知れない。

寄ってくるのは不良少年、不良少女、暴走族にチンピラやヤクザ。

私は生まれて初めて地上の地獄を知り、常に怯え、害されたくないために暴力的な青年期をすごすことになった。

不幸を絵に描いたような時間が過ぎて行った。

そんな暗黒時代の真っ只中で母や姉は違っていた。屈託無く私を愛してくれた。

その当時はまったくそれに気がつかなかったが、今ははっきりとわかる、無償で無条件に私を守ろうとしてくれていたのだ。

母はいつも私が事件を起こし警察沙汰になるたびに口癖のように言っていた。

「全て私たち親の責任である」

「例え今のあなたがどういう状況であれ、私はどんな時もあなたを信じている」

「必ずあたたが良くなっていくと信じている」

念仏のように私につぶやいていた。

頭にはたくさんの円形脱毛症ができていた。

教員という立場柄、相当辛い心境だっただろうが、決して私を責めることはなかった。

一度も私に罰を与えようとはしなかったのだ。

私は鑑別所行きのために児童相談所に入れられた。そこでの素行が基準となり、鑑別所に行くか行かないか決まるのだ。

私はどうでもよかった。

生きている意味も、進学や就職など全く興味がなかった。

周りの生徒たちは将来のために一生懸命受験勉強していたが、私は嫌いな教師の授業ではずっと漫画を描いていたり居眠りしていた。

嫌いな教員の中間テストも期末テストも全て白紙で提出していた。そいつの作ったテストなど一問も答える気も考える気さえも毛頭なかった。

それが暴力教師たちにできる精一杯の復讐だったのだ。

小学一年生の時に学年でトップだった私は、その9年後の中三の卒業前には400名の全校生徒の中で一番ビリかその前くらいに落ちぶれていた。

私にとってそんなことはどうでもよかった。

私の関心は常に学校が終わったら何して遊ぶか?
アリとキリギリスのように真夏を謳歌し、やがて来る冬の備えのことなど夢にも思わなかった。

そして中学卒業、私は県内の県立、私立ほとんどの高校から受験を受けさせてもらえないことになった。

受験以前に内申書で全て落とされたのだ。

私にはそんなことなど本当にどうでもよかった。

刹那的人生の真っ只中に孤独と共に生きていた。

その頃市内の外れの他校の中学生と付き合っていた。私は彼女を心から愛していた。

彼女ももちろんその中学で一番の不良だった。

鑑別所に行く寸前で中学の卒業に出くわし難を逃れたが片親や学校側が強制的に一人大阪の紡績工場行かされることになっていた。

私は「じゃあ俺も大阪行くよ!」と極めて不純な動機で中卒で大阪に単身で行くことにした。
両親も地元にいてもろくなことはしないのでいっそ遠く離れた地で頭冷やしてこい!くらいの気持ちだったのか?定かではないが、大阪行きはすんなりと実現した。
私の憎き体育会系で学年一の暴力教師は、私が大阪に行く日に逃げ出すと思い込んで駅のホームの陰で私を見張っていたらしい。

私はこの教師をいつかナイフで刺したいと本気で切望していたが叶わぬ夢で終わった。

私に最も暴力を振るった体育会系の担任であった。

後にこの先生は私の後輩たちが中学を出た時にボコられたと噂で聞いた。

16歳の私にとって大阪での就職は地獄の一丁目であった。「波長同通の法則はどこにいても誰といても関係なく完璧に働いているのだ。地獄の心を持つものは世界の果てまで逃げようとも行く先々で地獄が待っていることをこの時は知る由もなかった。

 

2015年7月18日 空太郎

 

 

 

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