1.プライドを捨てる方法
throw away the pride
プライドとは何か?
プライドは一般的な定義で自尊心であるとか自負心、自慢などと言われている。
私が考えるプライドも然りであり、この中に見栄や虚栄も含まれるだろう。自尊心は人間の尊厳に値すると考えるが、では人の価値とは何だろう?
この価値を考える時にどうしても避けられない定義がある。
それは相対的価値観と絶対的価値観の違いである。
相対的価値観は私たちが通常考えている価値観であり、相対するものとの比較によって価値があるとか価値が無いとか考える領域のことだ。
具体的に話していくと、相対的価値の中ではあの人とこの人、自分と他人という考えがベースにある状態のことで、年収にしても、もし誰とも比較対照しなければ多いとか少ないという考えが生まれることは無い。
所有しているものに関しても全く同じで、誰それが所有している車や時計、家や家具、インテリアなどと自分の所有しているものとの金額やブランド見た目の違いによって優劣をつけ、良し悪しを判断するから劣っている自分や、優れている他人という思考から抜け出せなくなる。
ではもし、相対感を持た無い立場で物事を見ることができたら全く違った見え方をするはずだ。
では他人との比較が無い世界、絶対的な価値とは何であるか?
それこそがそもそも人の持つ価値であり、失敗や成功を超越した価値観であると言えるだろう。
絶対価値は存在自体が最初から尊く価値があるという考え方である。
例えば赤ちゃんが誕生した時はどうだろう?
赤ちゃんは何も生産せず、何も所有しておらず、働かず、言うことを聞かず、お腹が減ったと自分の都合の良い時だけ泣き叫び、空腹を満たそうとする。
トイレにも行けず、食事も自分では取れ無いので100%誰かに依存して生きている。
そういう状態であるにもかかわらず世界中の人々から価値があると思われている。
ほぼ全員満場一致で赤ちゃんには価値があるというだろう。
将来生産性があるからと考える人もいるだろうが、そういう条件抜きで、無条件に愛される存在であるだろう。
その感覚に最も近いものを絶対的価値と言う。
例え総理大臣の子供でも、極貧のスラムで生まれた子供でもその生まれた瞬間に両者の違いがあるであろうか?
私たちも誰かの両親から必ず生まれており、この地上に生を受けた瞬間があった。
その時にどの人にも等しく価値があったのだ。
全くの生産性がなくても、全く何も所有していないくても尊い命であったはずだ。
周りの大人が価値が無いとか尊く無いと本気で考えたなら幼児虐待でゴミ箱に捨てられ命は途絶えていたはずだ。時折そういう事件もあるのはあるが、この文章を読んでいるあなたは違ったのだ。
価値があったからここに生きている。
その原点を知ることこそ、見栄やプライドを捨てる原動力となる。
人間の尊厳とは全ての人が祝福され地上に生を受けているという真実に基づいている。
生を受けたこと自体が神や仏からその存在を許されている証拠である。
他人との比較から生まれる相対的価値観から脱却し、もう一段高い境地から自分の存在を見つめることができれば、自分の原点である生を賜った瞬間が見え、そこには赤裸々で尊い自分のあるがままの姿が見えるのではないだろうか?
収入や所有物の多い少ない、高い安いでは人の価値は計れ無いことに気がつくことがとても大切では無いだろうか?
人の価値が絶対的なものであるという真実を受け入れたなら、破産しても大金持ちで大成功してもそれぞれの人自体の価値は変わらず尊いという考えにたどり着くのではないだろうか?
破産して全てを失っても、見栄やプライドがズタズタに引き裂かれようとも、普遍的で変わることの無い人の尊厳、人としての価値は健在であるといことになる。
何をどれだけ所有しているか?ということよりもむしろ逆境の中であなたは何をどう考えて生きていくのか?に本当の価値が生まれてくるのかもしれ無い。
プライド 見栄 虚栄を捨てる方法とは?逆説的であるが、捨てても捨ててもそもそもの自分の価値が増減することは無いという結論である。
2015年7月22日 空太郎
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